日銀-金融政策のジレンマ

過去最低水準へ公定歩合が引き下げられていった経緯

  • 80年代前半に日米貿易摩擦が深刻化(内需拡大+円高圧力)
  • 85年に前例のない円高誘導策「プラザ合意」(円高防止策のないままスタート)
  • 制御不能円高(合意前240円から1年後には150円を突破)
  • 円高不況対策+世界的な不況を背景に各国との協調利下げ+財政政策のしわ寄せ(財政再建を優先する土光臨調・中曽根内閣下では財政出動は無理)=度重なる利下げ(1年半で6回: 5.0%から過去最低水準の2.5%へ)

利上げが遅れた要因

  • 87年ブラックマンデー: 直前の利上げ休止命令=「世界恐慌の引き金を引くわけにはいかない」
  • インフレ指標の見誤り: インフレ懸念の芽を総点検したが、株価と地価以外、消費者物価・卸売物価など全て安定(「そば屋のビルの地価は上がっているが、そばの値段は上がっていない」)→キャッチアップ型モデルではマネーサプライを多めにして後押しした方がいいが、経済の転換点に来ていることを認識せず従来の発想に束縛→「マネーサプライを重視すべきだった」-澄田 元日銀総裁
  • 独立性の弱さ: 度重なる政治介入(独立性強化を盛り込んだ改正日銀法は4/98に施行)

崩壊直後の過剰な引締策の是非

  • バブルのつぶしが国是となり国民からも拍手喝さいをあびた「平成の鬼平」三重野日銀総裁を中心とする首脳部が「バブルつぶしの正義感」に浸ってしまい、「最後の利上げは余計だった」と内部批判されるほど急激な大外科手術を断行。
  • グリーンスパン議長は「バブルは一度はじければ加速度的にしぼむ。穴の開いた風船は二度と自力で膨らむことはない。対策は早ければ早いほど良い。」の考えに基づき、89年半ばバブルが崩壊すると、公定歩合やFFレートなど利下げを20回以上も断行。

個人・法人-なぜ成金が多数誕生したのか?(陶酔的熱病の症例)

  • 日経平均: 84年の10Kから89年末の39Kまで、ほぼ一直線で上昇
  • NTT株の売出価格: 野村総研47万円(海外競合比較)→野村證券73万円(あらゆる要素を超強気に設定)→政府の最終公募価格119万円→それでも当選者の競争率は応募の約6倍
  • “北浜の女帝””-料亭恵川の女将-尾上縫: 旧興銀やノンバンク等から個人への融資総額2.7兆円
  • 阪和興産: 勝利の方程式「株高→エクイティファイナンス自己資本増強→投資拡大→収益拡大→株高」により、財テクによる営業外収益は本業である鉄鋼営業の2倍超。地道に本業で稼ぐ社員は軽視され、財テク部隊は重宝。