直観と先見性 II

直観を磨くには

直観が優れている方は、無意識のうちにツボに相当する本筋を捉えられる。今回の夫婦げんかでは、

多くの感情から-> 敵対的な感情に注目-> 中でも「防衛、はぐらかし、批判、軽蔑」の4つ-> とりわけ男女差がない「軽蔑」にズームイン。

つまり、どうでもいい情報は捨てて、核となる要素に神経を集中させる。優れた判断には情報の節約が欠かせない。

概ね優秀な人材が集まりやすい大企業では、リスク回避思考が強く嫉妬心も加わり、他人のあら捜しをしてつるし上げることを好む文化がある。そこでは、聴衆の反論をかわすため、必要以上に情報を集めて検討しがち。しかし、余計な情報はただ無用なだけでなく、有害でもある。問題をややこしくするから。皮肉にも自信を持とうとすればするほど、正確な判断ができなくなる。

複雑な現象の下に潜む潜在というサインを見つけるには、単純だけど7割程度をカバーする本筋・本流を捉えればよい。そして直観を基に、論理的思考で熟慮する「左脳と右脳のキャッチボール」、熟考と直観的思考のバランスが必要。いずれも訓練と経験によって、瞬時の判断力を高めることができる。

羽生義治 棋士の直感とは

若手は、簡単な一手を指すにも数百もの膨大な手を読んで指すが、ベテランは勘でパッと見当をつけて指す。パッパッと指す手には邪念がないから、基本的に悪くない。全体を判断する目、大局観、本質を見抜く力、ばらばらな知識のピースを連結させる知恵といってもいい。逆にいうと、余計な思考を省き、近道を発見するようなもの。その思考の基盤になるのが、勘、つまり直感力や感性。直感の7割は正しい。・・・中学の図形問題では補助線がひらめかないと解くのが難しいが、将棋もこの補助線のようなひらめきが浮かぶがどうかが、強さの決め手。・・・・将棋を通して、知識を知恵に昇華させるすべを学んだ。

よい経験を積むこと by 「脳には妙なクセがある」

自由意思とは本人の錯覚にすぎず、実際の行動の大部分は環境や刺激によって、あるいは普段の習慣によって決まる。私たちは「自分で判断した」「自分で解釈した」と自信満々に勘違いしがちだが、実際はその人の「思考癖」や「環境因子」など、脳という自動判定装置に起因する。つまり、本人が過去にどれほどよい経験をしてきているかに依存する。だから、「よく生きる」ことは「よい経験をする」こと。すると「よい癖」が出てくる。
「頭のよさ」=「反射が的確であること」と解釈するなら、その場その場に応じて、適切な行動ができること。適切な行動は、その場の環境と、過去の経験とが融合されて形成される「反射」。だからこそ、人の成長は「反射力」を鍛えるという一点に集約される。そのためには、よい経験をすることだ。
例えば、骨董品の鑑定士は、実物を見ただけで、本物か偽物か、また本物だったらどれほど芸術的価値があるかを、瞬時に見分けることができる。ほとんど反射。真贋(しんがん)を見極める力は、経験がものを言う。どれほどたくさんの品を見たことがあるのか、どれほどすばらしい逸品に出会ってきたか。素晴らしい経験はかけがえのない財産となり、適切な反射として実を結ぶ。センスや直感などもすべて経験の賜物。

先見性の片言隻句:

  • 「桐一葉 落ちて天下の秋を知る」、あるとき桐の葉が一枚、足元に落ちるのを見て、政権が衰退に向かっていることを察したという名句。桐は落葉樹の中でもより早く落ち葉となるので、桐一葉は衰亡の兆しの象徴とされるが、全く無関係な現象からものごとの潮流を感じ取ったという、常人からすればちょっとあやしげなことわざ。
  • 韓非子いわく、「聖人は微を見て以って明を知り、端を見て以って末を知る」。かすかな兆候から将来の全体を推し量り、わずかな部分を見て結果を知ることができる。こんな人いるのかなというスーパースター像。
  • 易経いわく、「易は聖人の深きを極め、幾を磨く所以なり」。「幾」とは兆し、時の機微。磨くとは、微細な粉末にすり砕くほど研究すること。時の機微を察知するために、ただひたすら易学や様々な体験から学び、反復し、努力精進して、研ぎ澄まされた洞察力と直観力を養いなさいとの教え。