易経II-洞察力と直観力

変化の道理とは

変化の原理原則が、「易は窮まれば変ず。変ずれば通ず。通ずれば久し」
全てのものごとは窮(極)まった瞬間に変化する。冬が極まれば夏へ、夏が極まれば冬へ、その方向を対極へと転化させ、変化が起これば、行き詰まることなく、終わりなく久しく通じていく。当たり前なこの原則。混沌とした状況に陥れば陥るほど気づかないほか、後ほど触れる人間学の奥深い真理、東洋思想の原点とさえいわれる「陰陽説」とも深いつながりがあるとの解釈。

「時」を見極める洞察力とは

視野の中心に目を置きながら360度全体を見渡す大局観で、現象の裏側にある時の一定不変の法則性を見通す・見抜く力。ものごと全体の流れの成り行きである大局を見通し、時の本流を見抜く力。

「兆し」を察する直観力とは

誰にも分かる現象化された点「現象の極点」と、目に見えない「潜象の極点」にはかなりのズレがある。例えば、症状が出て気付く病気。健康に気を配っている人が、いつもとは違う違和感を重病の兆しと直観し、病院で検査したら初期ガンだった。または、ある人に会いたいと思ったら、その人から電話があったなど、心で感じたこと、思ったことと現実とが、まるで因果関係あるように共に起こる偶然の一致。易経を学んだ心理学者C.G.ユングいわく、「共時性(synchronicity) とは、偶然性ではなく規則性である」。因果関係の外部、あるいはそれに付随して働く連絡の形式。

推理や分析によらず、わずかな兆しで将来を察する直観力。まだ現象化されない潜み隠れた震えのような物事のかすかな動き、「兆し」というシグナルをだれもが受け取っているものの、それを前兆・予兆として直観し、行動できるかどうか。

  • 「桐一葉 落ちて天下の秋を知る」、あるとき桐の葉が一枚、足元に落ちるのを見て、政権が衰退に向かっていることを察したという名句。桐は落葉樹の中でもより早く落ち葉となるので、桐一葉は衰亡の兆しの象徴とされるが、全く無関係な現象からものごとの潮流を感じ取ったという、常人からすればちょっとあやしげなことわざ。
  • 韓非子いわく、「聖人は微を見て以って明を知り、端を見て以って末を知る」。かすかな兆候から将来の全体を推し量り、わずかな部分を見て結果を知ることができる。こんな人いるのかなというスーパースター像。
  • 易経いわく、「易は聖人の深きを極め、幾を磨く所以なり」。「幾」とは兆し、時の機微。磨くとは、微細な粉末にすり砕くほど研究すること。時の機微を察知するために、ただひたすら易学や様々な体験から学び、反復し、努力精進して、研ぎ澄まされた洞察力と直観力を養いなさいとの教え。

「時」を見極める洞察力 + 「兆し」を察する直観力 = 風を観ること

易経-風地観いわく、「風の地上を行くは観なり」。風があまねく吹き渡るのを観ることが洞察、洞察とは風を観ること。時は地上を吹き渡る風のように、常に変化して、流れ往き、目に見えず、言葉で聞くこともできない。しかし、人の言動や、世の中で起こる出来事、目に見える全てが、今はどういう時か、時はどこへ向かっているのかという法則性を示している。目に映るもの、体験する全てのことを通して時を知り、兆しを察すること。

それができると、羽生義治 棋士のような超一流レベル「直感の正解率=7割」に達するのかも・・・「思考の基盤になるのが、勘、つまり直感力や感性。直感の7割は正しい」。