易経III-陰陽説
もう一つの道理: 東洋思想の原点「陰陽説」
映画 『陰陽師』で、安倍晴明を演じた野村萬斎さんの声をイメージして、読むと分かりやすいかも。
森羅万象、宇宙のありとあらゆる事物をさまざまな観点から、受動的な性質を「陰」、能動的な性質を「陽」に分類。原初は混沌(カオス)の状態であると考え、この混沌の中から光に満ちた明るい澄んだ気「陽」が上昇して天となり、重く濁った暗黒の気「陰」が下降して地となった。この二つの気の働きによって万物の事象を理解し、また将来までも予測しようというのが陰陽思想。
例えば、地・影・暗・柔・水・冬・夜・植物・女などが「陰」、天・光・明・剛・火・夏・昼・動物・男などが「陽」。優劣はなく、相反しつつも、対になって交ざり合おうとすることで、新たな循環エネルギーを生み出す。冬(陰) から夏(陽)へ向かい、夏から冬へ向かって春夏秋冬の循環エネルギーを生み出すように。一方で、天(陽)から太陽の光や雨が大地(陰)に降り注ぎ、生物をはぐくみ育てるほか、男女が交わって新しい生命が誕生するなど、交ざり合うことで新たなものを生みだし、進化もする。また母親と息子、性別関係では陰と陽だが、親子関係では陽と陰のように、陰陽の判断は固定したものではなく、転化する。
陽を伸ばすものは陰の力で、陰を伸ばすものは陽の力。どちらか一方がなければもう一方も存在し得ない。森羅万象、宇宙のありとあらゆる物は、相反する陰と陽の二気によって消長盛衰し、陰と陽の二気が調和して初めて自然の秩序が保たれる。
陰陽説を人生哲学に当てはめると・・・
もう少しわかりやすく解説した安岡正篤 先生の「易と人生哲学」によると、
天地、人間の創造変化は、相対立するとともに相関連する、形のうえでは相対して同時に相待つ。その根源は陰であります。
これは草木を例にとって考えるとよくわかります。木は根・幹・枝・葉・花・実とだんだん分かれ分かれて繁茂していく、これが発動分化の力(陽)。これが逆になりますと実・花・葉・枝・幹・根と統一し含蓄されます。これが統一含蓄の力(陰)であります。この発動分化の力(陽)と統一含蓄の力(陰)のふたつが、相待つ相対性理論であります。統一し含蓄する力、これが陰で根本であります。
陽は陰に待ちませんと、ただ分化発展していくだけですと分かれていきますから、ついにはわからなくなるのであります。あまり分派すると力がなくなり、あまり茂りすぎると生命力、創造力がなくなりますから、わからなくなる、そこでこれを結ばなければなりません。枝から幹に、幹から根にという具合に結ばなければなりません。これが創造の理論であって、易の陰陽の理論でもあります。
人格では、陰は成長の原動力、結びの力であり、これを徳と申します。また分かれて枝葉となり、花実となる陽の力、これを才幹、知能と申します。この徳性と才幹知能が相まって、ここに人格というものができあがるわけであります。
われわれの欲望というものは陽です。対する内省、反省というものは陰であります。欲望がなければ活動がないわけですから、欲望はさかんでなければなりませんが、さかんであればあるほど内省というものが強く要求されます。内省のない欲望は邪欲であります。内省という陰の働きは、「省みる」という意味と「省く」という意味があります。内省すれば必ずよけいなものを省き、陽の整理を行い陰の結ぶ力を充実いたします。人間の存在や活動は省の一字に帰するともいわれる所以であります。この省の字は、「かえりみ」「はぶく」と読み、解釈しなければなりません。どちらか一方では半分落としております。
植木屋はこの陰陽の理法を最も端的に修めて始終実行しております。枝葉を茂らしておくと日がささなくなり、風もとおらなくなり、そうなると虫がつき枝葉が蒸れて生長がとまります。そこで植木屋は始終、鋏をもってチョキチョキと枝葉を刈っております。花の栽培も、むやみに花を咲かせますと、必ず次の年は駄目であります。花もやはりうまく整理をしなければなりません。最も大事なのは実であります。実を多くならせますと、一番木が弱ります。そこでいくら惜しくても、思い切って実をまびかなければなりません。これを果断とか果決といいます。
これは実生活には非常に難しいことでありまして、うかうかしておると花も実も駄目になるばかりでなく、木そのものが弱り枯れたり倒れたりいたします。だから人間として欲望も才能も、そして気力も気魄(きはく)もあって、しかもよく反省して自己を粛清し、てきぱきと事を処理していけるというのが本当の健康な人間であります。これを易経の冒頭に陽の乾(けん)の卦、坤(こん)の卦という天地の卦をおいて、この理法を教えております。