相手を許す方法

許すことの難しさ: 間違いだと気づく理性と一貫性を保ちたい感性との格闘 = 人を許す前に 自分を許さなければならないから

例えば、「絶対に許さない!」とコミットメントすると、その一貫性を保ちたい圧力が内外からかかる。このように、ひとたび決定を下したりある立場を取ると、そのコミットメントと一貫した行動をとるよう、個人的にも対人的にも正当化しようとする圧力がかかる。心理学的には、「コミットメントと一貫性」と呼ばれる現象。それゆえ、相手を許すことの難しさは、一貫性を保ちたい気持ちの強さの反映で、背景に強靭な慣性の法則が働いているともいえる。

  • 禅僧 南直哉いわく、「人を許すことがなぜ難しいか。それは、人を許す前に、自分を許さなければならないから。以前に、いまにも自殺しそうな30代男性の話を一晩中聞いていた。小学校でのいじめがトラウマになり、引きこもり状態から抜け出せず、20年経っても当時のいじめっ子の名前や細かな言動まで実によく覚えていた。相手を許そうが許すまいが、いじめの記憶とトラウマは消えない。相手を許しがたいのは、自分がかわいそうだから、自分に申し訳ないから。誰かを許す前に、許す自分を受け入れないといけない。だからこそ、許すというのは難しいし、ものすごく手間がかかる。人に相談できないということは、人に言う自分が許せないということかもしれない。実は、自分が壁になって見えないことがいっぱいある。そのことに気づくだけでも違うと思う。」

許す方法

相手を許すには、一貫性を保ちたいという慣性の法則を破ること。最終的には、許す自分を受け入れることだが、容易でないため、別の逃げ道をいくつか紹介。

  • 「自分はこの人と人生を入れ替えたいか、あの人の立場になりたいか」と考えてみれば、「絶対なりたくない、自分で良かった」という気持ちになるはず。そうすれば、あんなひどいことをする相手は、「むしろかわいそうな人なんだ」とも思えるようになるはず。自分の被害だけに目を向けるのではなく、相手の立場から自分の正義を眺め、たとえ耐えがたき損害があったとしても自分であったことに安心する、一種の大局観、自分の正義感を俯瞰してみては。
  • 世の中にひどい迷惑をかけたり、犯罪を犯したりしたような人が親の場合、許すことはできなくても、愛することはできるはず。心の葛藤を、善悪と愛情に分けて、善悪では許せないけど、愛情では救うこと、いわゆる罪を憎んで人を憎まずで、自分の心のバランスをとってみては。怒るのではなく、叱る極意もこの精神。

(ではその愛情とは・・・)

  • 禅僧 南直哉いわく、「愛の本質は、自己愛=エゴ=愛欲。愛するという根底に、愛されたいという思いがあれば、それは取引。一生続く愛というのは、母親の愛以外に殆どなく、多くは相手を思い通りにしたいという支配欲がどうしても残る。仏教では『慈悲』という言葉があるが、そこには支配する感情はない。あくまで結果として相手が感じること。相手を理解しようという想像力があって、手を差しのべた相手がそれを慈悲だと感じたとき、成立する。相手への想像力が支配欲を超える。その大前提が、『相手のことは分からない』ということ。だから分かろうとする、想像する、全部分からなくても何かは分かるだろう、分かりたいと思うこと。そこに慈悲の核心がある。あなたのことは全部分かっているという能動的な言い方や態度だと、愛情はあるかもしれないが、どうしても支配が残る。だから相手は心を開かない。逆に分からないから教えて、聞かせてという受動的態度だと、相手は心を開く。『分からない』ということが、理解しようとする基本でしょ。」
  • 続けていわく、「見合いの当日に初めて主人に会ったという檀家のおばあちゃんが何人もいるけど、彼女たちは本当に相手を大事に思ってきたし、亡くなった後も心から悼んでいる。それは、長年生活を共にすることで、苦労を分かち合ってきたから。人間関係で唯一頼りになるものがあるとすれば、利害関係を超えた関係、ある経験を共有したゆえの理解と敬意において成立するもの。この人に裏切られるんならしょうがない、この人と一緒ならお金が少なくてもいいや、と思える関係。敬意と愛情との決定的違いは、支配欲。尊敬する人には、思い通りにしたいという感情はわかないはず。愛の上に敬をつけて、敬愛。この敬の根本も想像力。」