「愛情の本質」 慈悲とは、仁とは

相手の話を聞く達人にお坊さんがいるが、その吸引力の正体が「慈悲」。社員に生きがいを与える一つの方法が、愛情と感謝の心を持って存在価値を認め、声に出して伝えること。いずれにおいても愛情や慈悲などが重要。そこで今回は、「愛情」の本質に迫った。

1. 仏教 「慈悲」とは:

禅僧 南直哉「大前提『相手のことは分からない』-> 相手への想像力が支配欲を超える」

愛の本質は、自己愛=エゴ=愛欲。愛するという根底に、愛されたいという思いがあれば、それは取引。一生続く愛というのは、母親の愛以外に殆どなく、多くは相手を思い通りにしたいという支配欲がある。仏教では「慈悲」という言葉があるが、そこには支配する感情はない。あくまで結果として相手が感じること。相手を理解しようという想像力があって、手を差しのべた相手がそれを慈悲だと感じたとき、成立する。相手への想像力が支配欲を超える。

その大前提が、「相手のことは分からない」ということ。だから分かろうとする、想像する、全部分からなくても何かは分かるだろう、分かりたいと思うこと。そこに慈悲の核心がある。あなたのことは全部分かっているという能動的な言い方や態度だと、愛情はあるかもしれないが、どうしても支配が残る。だから相手は心を開かない。逆に分からないから教えて、聞かせてという受動的態度だと、相手は心を開く。「分からない」ということが、理解しようとする基本。

見合いの当日に初めて主人に会ったという檀家のおばあちゃんが何人もいるけど、彼女たちは本当に相手を大事に思ってきたし、亡くなった後も心から悼んでいる。それは、長年生活を共にすることで、苦労を分かち合ってきたから。人間関係で唯一頼りになるものがあるとすれば、利害関係を超越した関係、ある経験を共有したゆえの理解と敬意において成立するもの。この人に裏切られるんならしょうがない、この人と一緒ならお金が少なくてもいいや、と思える関係。敬意と愛情との決定的違いは、支配欲。尊敬する人には、思い通りにしたいという感情はわかないはず。愛の上に敬をつけて、敬愛。この敬の根本も想像力。その大前提が、『相手のことは分からない』。

2. 儒教 「仁」とは:

人を愛すること+思いやりの心=自己愛というエゴのない対等な関係

顔淵が仁とは何か尋ねたところ、孔子いわく、「克己復礼」。己の欲望を抑えて、礼に復すとは、自己愛を抑制し「忠」、他人への思いやり「恕」を持って、それを形に表す「礼」ことで、自己愛というエゴがなくなり、己と相手が対等になれる。人を愛すること+思いやりの心=自己愛というエゴのない対等な関係=仁。

対決: キリスト教「自分にして欲しいことを他人にしないさい」 vs. 仏教・儒教「自分がして欲しくないことを他人にするな」

キリスト教の本質、愛「隣人を愛せよ」とは、まず自分を愛し、自分を愛するように隣人を愛せよ、という意味。しかし、愛の本質は、自己愛=エゴ=愛欲。それはときに相手を束縛し、嫉妬し、真の姿が見えなくなる盲目や失恋などの苦しみを生むので、解脱という真の安らぎを求め世間的な価値観から離れ出る「出世間」仏教では、自分本位になりがちな愛はお節介として嫌う。典型は、アメリカ人がベストだと考える「民主主義」を、嫌がるアラブ人に押し売りしたブッシュ政権イラク戦争

そこで逆説的に、お節介にならないよう「嫌なことは相手にもするな」という最低限度の規律を設定。愛することを他人にも拡大するのではなく、その裏返しとして、「みな自分が愛しい、だから他人を害するな」。愛情の積極性と消極性の対比。愛の対語として仏教では、利己心や執着心のない愛 = あらゆる人を救いたいという願い「慈悲」があるが、そこでは自分を苦しめる要素は極めて少ない。