修身教授録 II

立志・真の志とは

私は人生の真の出発は、志を立てることによって始まると考えるものです。古来、真の学問は、「立志を持ってその根本とす」、と言われているのもまったくこの故でしょう。人間はいかに生きるべきか、人生をいかに生き貫くべきであるかという一般的真理を、自分自身の上に落として来て、この二度とない人生をいかに生きるかという根本目標を打ち立てることによって、初めて私達の真の人生は始まると思うのです。

そもそも真の志とは、自分の心の奥底に潜在しつつ、常にその念願に現れて、自己を導き、自己を激励するものでなければならぬのです。書物を読んで感心したり、また人から話を聞いて、その時だけ感激しても、しばらくたつとケロリと忘れ去るようでは未だもって真の志というわけにはいかないのです。いやしくもひとたび真の志が立つならば、それは事あるごとに常に我が念頭に現れて、直接間接に自分の一挙手一投足に至まで、支配するところまでいかねばならぬと思うのです。

そもそも世の中のことというものは、真実に願うことは、もしそれが単なる私心に基づくものではない以上、必ずやいつか何らかの形で成就せられるものであります。このことは、これを信ずる人には必然の真理として実現するでしょうし、これを信じない者には単に一片の空言として終わるのです。総じて人間界の真理というものは、こうしたものなのてす。

願いに対して真実であるならば、仮にその人の肉体が生きている間に実現せられなくても、その死後に至って必ずや実現せられるものです。否、その志が深くて大きければそれだけ実現には時を要し、多くは肉体が死して後に初めて実現の緒につくと言ってもいいでしょう。すなわち、生前における真実の深さに比例して、その人の精神は死後も残るわけです。

人が志を立てるということは、いわばローソクに火を点ずるようなものです。ローソクは、火を点けられて初めて光をはなつものです。同様に人間は、その志を立てて初めてその人の真価が現れるのです。

諸君たちは師範教育を受けること2年、果たしていかなることをもって、自分の一生の志としているでしょうか。諸君らのうちに自分の死後においてその実現を期するほど内に遠大な志を抱いて、日常生活の歩みを進めている人が、はたして何人いるでしょうか。諸君、人生は二度とないのです。存命の間に不滅の精神を確立した人だけが、肉体が朽ちた後にもその精神はなお永遠に生きて、多くの人々の心に火を点ずることができるのです。諸君らがこの根本の一点に向かって、深く心を致されんことを切望してやまないしだいです。

人生二度なし

そもそもこの世の中のことというものは、大低のことは多少の例外があるものですが、この『人生二度なし』という真理のみは、古来只一つの例外すらないのです。しかしながら、この明白な事実に対して、諸君たちは、果たしてどの程度に感じているでしょうか。すなわち自分の命が、今後50年くらいたてば永久に消え去って、再び取り返し得ないという事実に対して、諸君たちは果たしてどれほどの認識と覚悟とを持っていると言えますか。

二度とない人生を、真に意義深く送ろうとするならば、諸君らの生活も自ずとその趣を異にしてくるでしょう。全ての物事を粗末にせず、その価値を残り少なく活かすためには、最初からそのものの全体の相を見通してかからねばなりません。既に人生のほぼ1/3ともいうべき歳月をほとんど無自覚のうちに過ごしてきたということを、深刻に後悔しなくてはなりません。同時に、今後がいかなるものでなければならぬのかということについても、おおよその見通しが立たねばなるまいと思うのです。「一日が一生の縮図」です。

野心 vs. 志

野心とか大望というのは自己中心なものです。すなわち自分の名を高め、自己の位置を獲得することがその根本動機となっているわけです。ところが、真の志とは、この二度とない人生をどのように生きたら、真にこの世に生まれてきた甲斐があるかということを考えて、心中つねに忘れぬということでしょう。ですから結局最後は、「世のため人のため」というところがなくては、真の意味では志とは言いがたいのです。

So what:

人生の密度を濃くするには、死という終点を再認識し、管理しやすい時間軸「一日が一生の縮図」を設け、司馬遼太郎「峠」の一説、「志ほど世に溶けやすく、壊れやすく、砕けやすいものはない」に留意して、志という名のローソクを早めに灯そうよ。その志とは、自らが死んで後も後世に受け継がれる夢やロマンで、周囲に希望をあたえ、率先して協力しようという気にさせる無限の力。「志」という字は、十 (大衆)、一 (リーダー) 、心に分解できるので、公に仕える心ともいえる。諸葛孔明いわく「寧静致遠」。あくまで自己中心的な野心とはき違えてはいけないよ。

「澹泊にあらざれば、以て志を明らかにすることなく、寧静にあらざれば、以て遠きを致すことなし」-諸葛孔明

私利私欲があれば志は明らかにできないし、それを保ち続けることもできない。ゆったりと落ち着いた心境にならないと、遠大な境地に立つことはできないよ。