軍部中枢内の力学

強行派への権力シフトの経緯

  • 満州事変(石原独断): 関東軍参謀 石原莞爾の独断
  • 日中戦争(石原<武藤): 参謀本部作戦部内で不拡大方針の石原部長のカリスマ性を持ってしても、拡大派の武藤課長に敗退(「石原将軍の満州での行動を見習い、その通り内モンゴルで実行しているだけ」との反論に返す言葉なし)
  • 日米戦争(武藤<田中): 慎重派の武藤軍務局長が推進派の田中作戦部長に敗北→参謀本部作戦部内で田中部長-服部課長-辻班長の強硬派が権力を掌握(服部-辻コンビは関東軍参謀として、ノモンハンにおいて独断専行で紛争を拡大、大敗北の責任者)

権力シフト・下克上の理由

  • 人事システム: 陸軍は戦闘結果よりリーダーの意図・やる気が評価(積極論者が過失を犯しても甘い人事: e.g. ノモンハン大惨敗の首謀者である服部-辻コンビは、一時的に左遷されたのみで2年後には軍部中枢の作戦部へ復権
  • 教育制度: 陸軍大学は、議論達者で意志強固な生徒を育成する土壌→指揮官を補佐するというよりリードし、時には指揮官を指揮する局面もあり

軍人の性かな、戦争反対・消極論を唱えると弱者扱いされる環境下では、合理性より精神論に重きを置いた声の大きい強硬派が受け入れられやすく、石原<武藤<田中へと権力がシフト。なお、武藤は対米戦には反対だったものの、中国がシナ戦線拡大を主導した武藤の極刑を強く望み、東京裁判で唯一、中将として絞首刑判決。一方、作戦課長を二度勤めた服部はGHQとの司法取引により戦犯追求を免れ、旧陸軍の資料管理の部門長へ、同時に辻の戦犯解除にも尽力。その辻は、フィリピンのバターン半島で降伏した米捕虜に独断で射殺命令「バターン死の行進」を出すなど、前線での数々の越権行為に罪を問う声がある一方、1952年から衆議員を4期、参議員を1期務める。