生きがい・働きがいの本質-I

経営学の大御所 ピーター・ドラッカーいわく、「経営とは、人を通して正しいことを行うこと」。その人を動かすには、金銭面、福利厚生、地位だけに頼っても限界がある。人の心のエネルギーは、多くの鉱脈の中に埋もれていて、新しい鉱脈を掘り当てると、これまでとは異なるエネルギーが供給される。内面の奥深く眠っている無限のエネルギー、生きがいや働きがいを呼び起こすにはどうすればいいか。鉱脈探しの旅へ・・・

1. 生きがい・働きがいとは: 生きている「はりあい」/ 「生命のより一層強烈な刺激」を求める魂

大きく下記3つ。具体的には、生きがい・働きがいを感じられない場合、内面に隠れているのは、小さな自己をもっと大きなもの/ 自己を超えたものにささげたいなど、生きている「意味への欲求」。逆に、生きがい・働きがいを感じる場合は、困難な問題に直面し 苦しいけど充実感を感じる「挑戦への欲求」と、自己実現ベンチャーなど新天地を切り開くワクワク感「未来性への欲求」。一言でいうと、生きている「はりあい」、または「生命のより一層強烈な刺激」を求める魂。

  • 小さな自己をもっと大きなもの/ 自己を超えたものにささげたいなど、生きている「意味への欲求」
  • 困難な問題に直面し 苦しいけど充実感を感じる「挑戦への欲求」
  • 自己実現ベンチャーなど新天地を切り開くワクワク感「未来性への欲求」

通常の価値: Only One を目指せ

例えば恋人、知人、家族などを失って初めてその価値に気づく。不在が存在のリアリティを呼び起こし、不在が存在を強いる。だから、「価値」 = 「ある」- 「なし」。その価値は、その人だけしかもっていなければ、存在意義としての価値も高まる。この原理をうまくとらえ、女性のハートもつかんだ歌詞が、「No.1にならなくてもいい もともと特別なOnly One」。

生きがい・働きがいの価値: 対人 + 自身

生きがいや働きがいに「Only One を目指せ」や「差別化しなければ、生き残れない」を当てはめると、最終的には「自分にしかできない使命や天命を見出し、精進せよ」になる。しかし、使命や天命を悟るのは容易ではなく、むしろ「個性的であれ」という強制が人を苦しめ、自分探しの旅行者が列をなす。ならば別の指標として、体験的に自分が存在することの喜びを感じるときを考えると、概ね以下の二つ。

  • 対人(相対): 価値ある存在として感謝される、必要だと認められる
  • 自身(絶対): 使命に向かってまい進、自分の限界を超越、世間体ではなく本人のみが感じる高揚

2. なぜ生きがい・働きがいを感じられないのか: 日本人の潜在意識

海外から帰国するたびに気づく、物質的・金銭的面の豊かさ。その一方で、多くの国民が幸せを感じない、生きがいを感じないと嘆くその本質は、日本人の潜在意識の中にある気がする。宗教関連の入門書を基に、ユダヤ教キリスト教イスラム教など絶対唯一の神を信じる多くの諸外国と、八百万の神を信じるか、あるいは神など信じない人が多い日本とに分け、あえて極端な対比をすることで、その概略を分かりやすく示したのが下表。

1) 構造体系: 中心統合 vs. 中空均衡

多くの神々から絶対唯一の神として一人の神だけと契約する一神教では、神は唯一で至高至善の神であり、神の原理・力には誰も逆らうことはできず、逆らう存在は徹底的に悪として排除される。なぜと問うより、つべこべ言わずに神の命令に従えという、ある種の絶対服従関係。唯一の神を中心にした「中心統合構造」、または「凸型文化」。

一方、絶対唯一の神を信じる人が少ない日本は、八百万の神のように、様々な神が部分的な対立や葛藤を互いに感じつつも、周りを取り囲み調和的な全体性を形成。中心にある力や原理に従って統合されるのではなく、中心は空で全体の均衡がとれた「中空均衡構造」、または「凹型文化」。そこにあるのは、論理的整合性ではなく、美的な調和性。大陸から伝わった仏教や儒教など異質なものも、排除するのではなく、まず受け入れ、時間の経過と共に全体的調和の中に取り込まれ、日本化され共存していく。中心統合構造のようなリーダーを嫌いがちな国民性も、全体の美的な調和性を重んじる文化の反映かも。

2) 行動指針: バイブルの有無-> 神の物差しvs. 世間の物差し

「人間はこんな存在であるべき、こう考えるべき、このような言動をとるべき」など、明文化されたバイブルという名の指針がある絶対唯一の神が住む陣営。そこでは、「神の物差し」を基に最終的評価は神が行い、個人では判断できないような迷いや問題が生じた場合は、神に決めてもらえる。人間には究極のところ、真実は分からないから、神にお任せすればよい、そんな考え方。アメリカの裁判で自ら罪を申告して少し免責してもらう司法取引、いわゆる罪の申告 guilty plea が95% (陪審制度は5%) を占める背景にも、法の網を巧みに潜り抜けたとしても後で神に罰せられる、真実は神のみぞ知るというような考えがあるから。心の支えとなる大黒柱や災難から逃れるシェルターを持った陣営。

一方、絶対唯一の神を信じる人が少ない日本は、決定的なバイブルという名の指針がないため、心の支えとなる大黒柱やシェルターがない。だから、個人では判断できないような問題が生じた場合、意思決定は自分で行い、その判断は自身の道徳や周りの人々の評価「世間の物差し」に従う。裁判でも人間的努力によって白黒を決めようという気持ちが強い「人間至上主義」。