死生観の本質-II

2. 組織経営学者 飯田助教授: 「死とは肉体という器の交換」

(スピリチュアルな視点から、詳細は「生きがいシリーズ」参照・・・) 死が自分の終わりでなく、「意識としての自分」という生命は永遠に存在し、生まれ変わりを繰り返していくと仮定すると・・・人間の肉体には限界があるので、意識体としての私たちが永遠でも、肉体の方は定期的に取り替えなくてはならない。それが、物質世界でいう「死」という現象。死とは肉体という器の交換、リフレッシュ作業であり、そのついでに、これまでの人生で解いた問題と解き残した問題を確認し、どうせなら新しい問題集に作り替えて生まれてくる。

そうすると、「自分から求めて訪れてきた思い通りにならない環境で、生まれる前に自分自身で用意しておいた人生という名の問題集を解いているのが人生」、「人生ってのは、思い通りにならないところに価値がある。だから、わざわざ自分でつらいことをいっぱい計画して生まれてくるんだ」、「自分で選択した人生なんだから、全てを甘んじて受け入れよう」、「艱難辛苦があれば、まずその意味を考え-> それをいま学ぶ必要がある-> だから試練が目の前に現れたんだ-> それも自分で立てた計画通りだから むしろ順調な証拠」という心境に至れる。

死ぬということは、ただ肉体という衣服を脱いできがえるだけ。次にどんな衣服を着るかは自分で選択でき、先立った懐かしい人々との再会がまっていて、物質世界に残す家族はやがて自分が迎えに来ればよい。

個人的見解

  • 臨死体験などスピリチュアルな世界: 超一流アスリートが体験する「ZONE の世界」でもふれたように、臨死体験というのは、脳の異常状態で、極限状態になると肉体・精神 共に苦痛を感じるので、それを鎮めるために起こる脳内麻痺のような状態。茂木健一郎さんいわく、「脳が異常な生理状態に置かれたときに、人間が経験する変性状態」
  • 輪廻転生や生まれ変わり: 今のところ信じていないが、そう思ったほうが受け入れやすくなる場合、精神安定剤として服用する程度。例えば、「自分で選択した人生」と「思い通りにならないところに価値があるから、わざわざ自分でつらいことをいっぱい計画して生まれてくる」という心の置き所。艱難辛苦を受動的にありがたいと思うだけでなく、能動的に「自分で選んだんだ」という攻めの思考。我々生命を構成している分子、原子、陽子、中性子などは、ビッグバン->地球誕生->生命誕生の過程を経て受け継がれてきたものだし、死んだ後も世界中に広がり次世代の生態系の一部分になるという意味でなら、生まれ変わりも理解できる。

3. 禅僧 南直哉: 「死後の世界については答えない『無記』= 分からないことは分からないで止めるべき」

霊魂があるかないかの話を、なぜ人は大昔から古今東西、ずっと今までしてきたかというと、他人ごとじゃないから。根本には、自分はどこから来てどこへ行くのか分からないという、実在の根底に不安があるから。だから、霊魂とかあの世とか、何か言葉をもってきてフタをしたくなる。

どこから来てどこへ行くのかという問い、人間の普遍的かつ根本的欲望に対し、ブッタは「そんなことはよく生きることに役立たない」と断言し止めてしまう。「人はいかなる存在で、どのように生きるべきか」が最大のテーマなので、人間が生きるためにその種の議論は無意味で、人間の頭では分からない、生まれてから考えても生まれる前のことは分かるわけがない、だから「考えるな、捨て置け」と言いたかったのではないか。それが「無記」や「無常」。孔子も「いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らんや (死後のことを考えるな、そんなものは妄想だよ)」と同様に捉えている。「ある」とか「ない」とか言う前に、絶対に分からないこと、どこまで行っても答えにならないことは、分からないってところで止めるべきで、断念することを学ぶべき。あきらめるとは、もともと「明らかに見る」こと。だから、あきらめることができる。

霊魂の問題でも、「ある」と決めてしまうと体系が閉じてしまう。「ない」と決めてしまっても、それはそれで閉じてしまう。そこを答えないということは、非なるものに向かって、科学なら科学でないもの、宗教なら宗教でないものに向かって開くということ。だから答えない。「ある」といっても「ない」といっても、客観的に証明し、論理的に判定できない。矛盾が起こる。

そうは言っても、95歳のおばあちゃんに「死んだら私は良いところへ行けるか」と尋ねられたとき、私は「極楽に行ける」と答え、さらに「行けるに決まってるじゃない。こんなに努力して、一生懸命がんばったおばあちゃんが良いところに行けなくて、どこに行くの」と続けた。仏教思想の根本は、霊魂や死後の世界については答えない「無記」を貫くことにあるのに。

問題の本質は、あの世があるかないかではなく、来世を語ることによって、その人がどうなるかにある。それで、気持ちが軽くなるか、沈むか。おばあちゃんと話しているときの、存在する・しないということの判断基準をどこに求めるかは、おばあちゃんと私だけで決めていけない理由はないと思うようになった。では、その決定責任はどこにあるのか・・・言った人、つまり私。もし普遍的かつ絶対的な基準がどこかにあって、仏教で間違ったことを言ったら地獄に落ちると決まっているなら、落ちる覚悟で言わなければダメ。仏教者というのは、そういう立場にある人だと思う。

「唯一絶対の真理」を語ろうなどと思わないほうがいい。仏教者が扱うのは「いかに生きるか」。そこで大事なのは、個々人が抱えている問題にテイラーメイドで対応できるか、「唯一絶対の真理」という万能薬など効かないことが多い。