死生観の本質-I

密度= 質量÷体積のように、人生の密度= 実績÷人生。人生の密度を濃くするには、人生を有意義に過ごすには、まず分母の「人生という容器」を計ること。つまり、死という終点を再認識すること、何らかの死生観をもつこと。そうすれば、管理しやすい時間軸「一日が一生の縮図」を設け、司馬遼太郎「峠」の一説、「志ほど世に溶けやすく、壊れやすく、砕けやすいものはない」に留意して、終身教授録経営の本質II でもふれた志という名のローソクを早めに灯すことができるのではないか。

今回は、参考になる死生観をいくつか抜粋・・・

  1. 「人生は一度きりで、死ねば無に帰すのみ」という捉え方
  2. 「人生は一度きりだが、人生の前後にも何らかの形として存在している」など、スピリチュアルな視点から輪廻転生や生まれ変わりという捉え方
  3. その中間とでもいうか、そもそもそんなこと分からないという「無記」や「無常」
  4. 「死んでいくことの意味」とは何か、最後にはとっくみあいの乱闘にいたるまで激しい議論を戦わせた青年士官らの「戦艦大和ノ最期」より、特攻出撃命令が出された青年の死生観

1. 宗教学者 岸本英夫 元東大名誉教授: 「死が別れのとき、生は出会いの場」

ふつうの別れの時には、人間は色々と準備をする。心の準備をしているから、別れの悲しみに耐えてゆける。もっと本格的な別れである死なのに、なるべく死ないもののように考えようとするため、人間はかえってあまり準備をしていないのではないか。死のような大きな別れに耐えるには・・・・、思い切って死の準備をしたらどうか。

そのためには、今の生活が明日も明後日もできるのだと考えずに、芝居を見る時も、碁を打つときも、仕事をするときも、今が最後かもしれないという心構えを終始もっているようにすることである。それが、だんだん積み重なってくると、心に準備ができ、その準備が十分できれば死がやってきても、「ぷっつりと執着なく」切れていくことができるのではないか。こう考えるようになってからは、死を面と向かって眺めてみることが多少できるようになり、むしろ親しみやすいもの、出会いうるものとして死をとらえることができるようになった。

この「死は別れのとき」という考えに至ったことで、広く他人とのつながりの中で死を見つめることができるようになった。または、まもなく死ぬかもしれない自分を周囲の人々との結びつきの中へ、解き放つことができるようになった。「死が別れのとき」なら、「生は出会いの場」、この出会いをこれまで以上に大切にするようになった。

生と死とは、ちょうど光と闇との関係にある。物理的な自然現象としての暗闇というのは、それ自体が存在するものではない。光がないというだけのことで、それが暗闇。人間にとって光に等しいのは生命。その生命のないところを暗闇「死」として感じている。だから、死というものは実体ではない。人間にとって、真に「ある」といえるものは生のみで、「死は生の影」のようなものである。

従って、人間が真に心を向けるべきはこの今、現に与えられている命であり生活である。この与えられた人生をどう「よく生きるか」ということにある。「よく生きる」とは、「理想に向かって自分の一切を捧げつくす」こと。

(晩年の悟り: 「がむしゃらに働く」から「人生を静かに味わう」へ)
以前は、死んだらどうなるかという恐怖をごまかすために無性にがむしゃらに働いてきた。ただ、がむしゃらに働くことが、人生を充実させる所以とは限らない。静かに人生を味わっていく、この味わい方のほうが、ことによるともっと人生を本当に生きる所以かもしれない。死も今はそれほど怖くない。もう少し、静かに人生を味わって暮らしていく方が、本当の人生ではないかと考えるようになった。