諫言する側・受ける側

大企業病でもふれたように、大企業であればあるほど悪い情報ほど上がってこないため、耳の痛い話をしてくれたり、広い視点からものを言ってくれたりする外部人脈を豊富に持ち、アンテナを高くする必要がある。大勢に対し異論を受け入れ・促し、失敗から学び、共有する、という勇気ある「イエス」を活かす仕組みが重要。今回は、諫言する側・受ける側の心構えについて・・・まずは受ける側から

1) 諫言受ける側

戦国武将 黒田長政 「腹を立てずの異見会」

月に数回開く異見会で、長政本人から参加者全員に「何事を言っても決して恨むな、腹を立ててもダメ」との申し渡しでスタート。長政への手厳しい批判に対し怒りの気配が見えると、ある者が「これはどういうことでございますか。怒っておられるように見えます」と諫言。すると「いやいや、心中に少しの怒りもない」と顔色を和らげる。本人にとって有意義だったらしく、「今後も異見会を毎月一回は開くように」との遺言。

2) 諫言する側

儒学者 貝原益軒 「直諫より諷諫、それにもコツがある」

人に忠告する方法は二つ。遠慮なく相手の非を指摘する「直諫(ちょっかん)」と、他のことによせてそれとなく婉曲的に指摘する「諷諫(ふうかん)」。よほど優れた人でなければ、直諫は百害あって一利なし。諷諫によってよく聞き入れられたという例が多い。諷諫の方法として、良いところを誉めて喜ばせ、心を逆なでせず、「そうすると損で、こうすると得」と説明する。あるいは、何かに例えて、善悪や損得を述べるのもいい。すると、聞く人は腹を立てないで喜んで忠告を聞き、それに従う。

易経 「心の窓を探し、言葉を入れよ」

「約ぶを納るるに 窓よりす」。家の中にいる人に向かって言葉をかけるとき、壁越しだと聞こえないが、窓から言えば聞こえる。忠告をする場合でも、必ずどこかほんの一部分に物事の正しい道筋をわきまえられるところ、「心の窓」がある。あるいは、好きなところ得意なところがある。そこをよく見つけて言葉を入れていけば、聞き入れられやすくなる。「心の窓」を見つけずに、壁に向かってどれだけ真心を尽くして忠告しても、聞き入れられなければ何にもならない。

「心の窓」を活用した実話: 新渡戸稲造「人生とは理想を行動に翻訳するようなもの」

新渡戸稲造いわく、「理想を行動に翻訳する」のが人生。理想という言葉を行為に翻訳する。もやもやして形のない考えを実際の言葉と行動で表す。この翻訳はなかなか難しい。原文を正確に理解していなければ翻訳はできないし、訳する言葉が分からなければ、適切な翻訳ができない。それと同じように、我々が思うように理想に近づけないのは、理想が正確でなく、実行もはっきりしていないように、翻訳の仕方が分かっていないから。

江戸後期の実話として、ある殿様が江戸城西の丸近くを通って登城しようとしたとき、外国人が乗馬で行列の前を横切った。殿様は通訳に、「あの者の無礼を正して、その場で切り捨てよ」と命じた。
通訳は外国人に、「私の主人があなたの馬に乗る姿を見て、西洋の鞍が面白い、乗り方も見事であるので、鞍を拝見できないかと申しております。途中でお止めて申して大変失礼であるが、主人のたっての頼みなので、ぜひ見せて頂きたい。主人がカゴから降りてくるのが本筋だけど、あなたは乗馬が上手なので、カゴの前に来て見せて頂けないか。」
外国人は、得意になってカゴのそばに来て鞍を見せようと、下馬して脱帽し挨拶した。通訳は殿様に、「この者は、誠に恐れ入りましたと言って、このように脱帽してお詫び申し上げております。なにとぞ、命だけはお許しを願いたい」と伝えたところ、殿様も「下馬して脱帽し、わびるなら許してつかわせ」と。
通訳は外国人に、「見事な鞍を拝見してありがたい。カゴの中から大変ご無礼ではあるが、誠にご苦労であったと厚くお礼申しております」と伝えると、外国人は恐縮し、「日本に来て、大名と直接話せたことは初めてで、大変名誉なこと」と喜び、再三脱帽した後で去って行った。通訳が殿様に、「このように再三脱帽しておわび申しております」と伝えると、殿様は「苦しゅうない、苦しゅうない」と言ったそうな。